拓北農兵隊とは何?なつぞら山田天陽の家で作物が育たない話にはモデルが実在!

こんにちは!タンゴです。

NHK朝ドラ「なつぞら」で、山田家の畑の土が悪すぎる理由を話す中で拓北農兵隊という言葉が出てきましたが、聞きなれない言葉なので、とても気になりました。

この記事では、

  • 山田天陽の家はなぜ貧しい?畑で作物が育たない理由
  • 山田天陽の家の拓北農兵隊とは何か

について調べました。

この記事が、ドラマを楽しむための参考になれば嬉しいです。

山田天陽の家はなぜ貧しい?作物が育たない理由

なつぞら二週目第11回で、なつは天陽くんの家に遊びに行きます。

そして、天陽くんから、一家の畑の土が悪く、農作物が取れないため、そこを離れるという話を聞きます。

それを聞いたなつは、泰樹に助けを求めますが、「土が悪すぎる」と、あっさり却下されてしまいます。

するとすかさず、従業員の戸村さんが言います。

「それは、拓北農兵隊だな。」

すると、一同「拓北農兵隊???」となります。

おそらく、テレビの前の人もそう思った人が結構いたのではないでしょうか。

少なくとも私は、そのように思いました。

引き続き、戸村さんの説明が続きます。

つまり、日本の政府が空襲で家をなくした東京の人に、北海道へ行って開拓しなさいよと勧めたって訳だ。

なっちゃんの同級生もそんでここ、音問別に来たんだべ。

けど、今さら来たって、まともな土地はみんな開拓されたあとで、もう人が住んでるのさ。

結局、たくさんの人がもう東京に帰ったって話だけどね。

天陽くんの一家は、それにのって北海道へやって来たって訳さ…

要は、政府に騙されたってことでしょうか?

東京からきた人が、農業の素人でよく知らないのをいいことに、お金と引き換えに、開拓できないような土の悪い土地と粗末な家を当てがったようです。

山田天陽の家は、それをつかまされてしまったため、収穫が得られず、貧乏を余儀なくされてしまったのです。

柴田牧場のある音問別村のモデルは、音更町ではないかと言われています。場所は

拓北農兵隊について、もう少し詳しく調べてみました。

山田天陽の家の拓北農兵隊とは何か

江別市の公式ホームページ(広報えべつ2015年8月号)に、拓北農兵隊についての記事をみつけましたので、その内容をもとに解説します。

昭和19年(1944年)、20年(1945年)の大空襲により東京は焼野原となりました。

戦禍が広がる中、戦災者の疎開と食糧難対策が急務となり、東京都や北海道庁などは疎開と食糧増産を目的に、北海道開拓集団帰農者を募り、北海道各地に疎開(移住)させました。

そして、この集団帰農者を「拓北農兵隊」と呼びました。

江別の角山地区には、世田谷という地名があり、東京の世田谷区から36戸が入植しました。

世田谷からの入植者について、さらに詳しい記述があります。

拓北農兵隊に応募した世田谷区民の職業は、教師、画家、俳優、鉄工業、菓子職人など、農業とは無縁の人たちでした。

当時、入植した世田谷の人たちを待ち構えていたのは、寒く厳しい未墾の地でした。

入植地は、泥炭地が広がる原野で、割り当ての土地に通い、住宅づくりが初めの仕事となりました。

材料は、原始林から切り出して運び、屋根と壁は周辺にあった茅 や 葦を刈り取り材料にしました。

とりあえず、雨露をしのぐ体裁のものでした。

農作業は、原野特有の泥炭地との闘いでした。

厳しい冬の生活などの苦難に耐えやっていける目途がつくまで10年かかりました。

この様子は、まさに山田家の状況とそっくりですね。

入植した場所などは違いますが、当時の拓北農兵隊のおかれた状況をそっくりそのままモデルにしていると考えられます。

ちなみに山田天陽のモデルでもある、神田日勝についての記述も確認してみましょう。

昭和12年(1937年)東京板橋区で神田要一氏の次男として生まれた神田日勝は、東京大空襲を受け、昭和20年(1945年)8月14日家族と共に拓北農兵隊としてこの地に入植した。

出典:鹿追町ホームページ 神田日勝開拓入植地

神田日勝は1937年(昭和12年)、東京・練馬に、父神田要一、母ハナの次男として生まれた。

日本の敗戦が色濃くなった1945年(昭和20年)8月、一家は拓北農兵隊(戦災者集団帰農計画)に応募し、北海道へ向かう。

鹿追に着いたのは、終戦の前日8月14日であった。

“東京・疎開者”は全く農業の経験もない中、素手同然での開拓を強いられ、その殆どが5年を待たず脱落した。

そのようななか、神田一家は鹿追に定着した。

出典:神田日勝記念美術館 神田日勝の生涯

終戦の前日に到着し、新たな苦労を強いられたとなると、なかなか厳しい人生だったのではないでしょうか?

ほとんどの人が、土地を離れていったという理由も、よくわかりますね。

おわりに

泰樹たちを始め、村人たちが力を合わせて、開拓を始めて9年後、成長した天陽となつが会うシーンは、ようやく、生活の目途がついた頃のようです。

この記事では、

  • 拓北農兵隊とは、東京から北海道に入植した農業の経験のない人たち
  • 山田一家は、拓北農兵隊で、開墾の困難な土地と粗末な家を与えられたため、貧乏を強いられた

ということが、わかりました。

最後まで、お読みいただきありがとうございました。


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